妖艶百年桜 : 京北(百年桜Ⅱ) ― 2013年04月19日
黒田百年桜にただよう孤独と妖気……
厳しい冬をくぐり抜け、標高350mの山里に突然おとずれた、生ぬるい夜。
夜中に一人でこの木に向かうとき、そのなまなましい息づかいと、芳醇に匂い立つフェロモンに胸がざわつきます。
その昔、この場所へ植えられて、ここの人間たちを眺めながら生きていこうと覚悟した孤独な山桜が「突然変異」をしてしまい、何処にもない固有のDNAを持った…
…どろどろとした強い意志さえ感じる花です。
でも、咲くのがとっても遅いし、花弁の数はてんでばらばらだし、へろへろとくたびれた枝先に無理してびっしりと固まり咲くさまは、この木がほんとうはとても不器用だからかもしれない…
優美、華麗、気品など、洗練されたセンスを意味するような形容詞は、ちょっと違う気もします。
あなたもきっと、このミステリアスな花に憑りつかれた男たちが過去に何人もいたことを理解するでしょう。
この木はまだまだ数百年は生きるつもりでいます。
こつこつといのちをつなぐ人々の丁寧なくらしとその景色に、敬意と期待をこめて。
(撮影4月17日夜)
昼間の百年桜。
色は、いのち。
(4月17日夕刻)
*** 七日前まで連日の朝霜で足踏みがつづいていたそうです。
このあたりでは、農耕の指標といわれたコブシ(タムシバ)の花が咲いた後も平気で氷が張ります。
農の季節到来は、この百年桜が正確に教えてくれるようです。
これでも、例年より一週間早い開花。
六日前
四日前
きのう。
サクラ切るバカ :知恩院 ― 2005年08月20日

電線を地下化するために、この古桜を伐倒するという公告
近所の80歳近い住職が物心ついたころから、ずっとこの大きさだったといいます。背丈はむしろ縮んだくらいだと。
そこらの桜とは、わけが違うんだとおっしゃっていました。
ずっと世話してきたけど、わしらが言うても聞く耳もたんとも。
色濃く咲く古桜の並木は、えも言われぬ風格があって人々に愛されてきました。
桜たちも、枝下を通る人たちの人生模様を黙って眺め続けてきたことでしょう。
古桜の下で早朝清掃奉仕される方と地下足袋姿で朝の挨拶をするのも、なんだか気の引きしまる思いがして、私も好きな風景でした。
知恩院を世界遺産に登録申請するためだと聞きました。
いまや『世界遺産』こそが観光客をさらに増やすビジネス・キーワードということらしい。
妙な話です。何とか工夫できなかったものでしょうか。行政は真剣に努力したのでしょうか。
以下、写っている桜たちはすべて遺影です。
幼稚園から大学まであるこの華頂山の道で、伐倒『撤去』を宣告する白い腹帯を並べる演出は、無神経を通り越して、なんとも無残です。
近所の80歳近い住職が物心ついたころから、ずっとこの大きさだったといいます。背丈はむしろ縮んだくらいだと。
そこらの桜とは、わけが違うんだとおっしゃっていました。
ずっと世話してきたけど、わしらが言うても聞く耳もたんとも。
色濃く咲く古桜の並木は、えも言われぬ風格があって人々に愛されてきました。
桜たちも、枝下を通る人たちの人生模様を黙って眺め続けてきたことでしょう。
古桜の下で早朝清掃奉仕される方と地下足袋姿で朝の挨拶をするのも、なんだか気の引きしまる思いがして、私も好きな風景でした。
知恩院を世界遺産に登録申請するためだと聞きました。
いまや『世界遺産』こそが観光客をさらに増やすビジネス・キーワードということらしい。
妙な話です。何とか工夫できなかったものでしょうか。行政は真剣に努力したのでしょうか。
以下、写っている桜たちはすべて遺影です。
幼稚園から大学まであるこの華頂山の道で、伐倒『撤去』を宣告する白い腹帯を並べる演出は、無神経を通り越して、なんとも無残です。

悪条件に必死で耐えてきたこの桜たちも

この古桜も

道路向かいのこの古桜も……
およそ100年以上生きてきて
人間たちにみんな、切られてしまった。
何のために?
歴史的景観を作るため… !
黒田百年桜の治療 :京北(百年桜Ⅰ) ― 1997年04月30日
Before
(1996年4月の開花状況。花は少なく、太い幹や枝には3種類のキノコも生え腐朽が目立つ)
黒田百年桜は、京北町黒田地区の旧黒田村役場前に植えられた、ヤマザクラの突然変異種。
樹齢は200年とも300年とも言われるが正確な記録はない。
接する春日神社とは直接、関係はない。
花期は遅く、例年4月下旬。色濃く、香りも強い。房咲きで八重一重が混じる。
ここ3,4年の衰弱は目に見えて激しく、前年はまばらにしか咲かなかった。
平成7年、黒田自治会(林鋭二会長)は、樹勢回復を図るべく、京都森林組合連合会の嘱託樹木医、吉田隆夫先生に診断を依頼する。
たまたま、現場の植木屋にこそ樹木医の知識は必要と考えて『樹木医の手引き』(緑化センター発行)等で勉強したり、樹木医資格試験にもぐりこんで受けてみたりしていた私は、縁あって先生のこの調査に立ち会い、先生の手書きでびっしりと書き込まれた分厚い報告書をもとに、ご指導を受けながら工事設計をはじめることになった。
工事の最終目的は、強い胴吹き芽を出させること。それらが腐朽した幹に代わって今後数百年の黒田百年桜を形成していくこと。
平成8年11月、設計書は樹木医、自治会、さらに緑の羽根補助金のご許可をいただき、工事が始まった。
(写真は、手書きカラーコピー版日日庵報からの抜粋)
サンドイッチの地層。百聞は一見に如かず。
真ん中の黒い層は、このあたりの土でクロボク(黒田という地名のいわれ)。ここが本来の地表部分。
上の淡い色の部分はごく近年の盛り土で、キメの細かい左京区花背別所産の真砂土と思われる。単体で使うと堅く締まるのでグラウンド等にもよく使われている。
一番下の地層は、赤土粘土層。
この赤土粘土の底を写真で見た樹木医吉田先生は、思わず、読みが甘かったとつぶやいた。
クロボクの層にある本来の太い根は盛り土により窒息、ことごとくまっ黒に腐朽が進行してしまっていた。真砂土の盛り土は堅く締まって空気が流通しないため、地表すれすれに、か細い白い根っこをかろうじて出していた。
↑ クロボクの旧地表上部付近の太い根。まっ黒に腐って、さわるとボロボロとめくれた。
↓ かつては地表に顔を出していただろう、風格ある巨大な根も窒息し、柔らかくもろもろと崩れた。
さらに、樹冠下のアスファルト舗装を剥ぎ取る。
出てきたものはぼろぼろにちぎれた大量の太い根の残骸だけだった。
衰弱の直接原因は、樹冠下の転圧とアスファルト舗装、それに真砂土の30~40㎝に及ぶ盛り土と造園的デコレーション(石板や植栽等)。底の赤土粘土層はその被害をさらに増幅させた。
衰弱の直接原因は、樹冠下の転圧とアスファルト舗装、それに真砂土の30~40㎝に及ぶ盛り土と造園的デコレーション(石板や植栽等)。底の赤土粘土層はその被害をさらに増幅させた。
( ↑ 呼びかけに応じて高校生もボランティアに参加してくれた)
作業は、地元黒田地区在住の方々や、京都市から細野地区へ転入されてこられた美容師のご夫婦などの移住者、高校生を含む熱心なボランティアを得て、地元小学生の見学なども受けながら連日順調に進められた。
樹木医たちからの信頼も厚い京都伏見の老舗(有)林菊一商店 林一治先生のご協力や的確なアドバイスも受けながら、最新の情報と改良資材をふんだんに用いて土壌改良工事が進められた。
材腐朽菌にやられた太い幹の処置に迷った時は、写真、サンプルをもって樹木医吉田隆夫先生を通じて、当時の桜研究の第一人者で『樹木医の手引き』の執筆者だった東京農大教授に判断を仰ぐなど、大げさではなく、当時日本で用意できうる最高の頭脳と材料(ドイツ製もあったが)で、時間や手間を惜しまず丁寧に工事は行われた。
材腐朽菌にやられた太い幹の処置に迷った時は、写真、サンプルをもって樹木医吉田隆夫先生を通じて、当時の桜研究の第一人者で『樹木医の手引き』の執筆者だった東京農大教授に判断を仰ぐなど、大げさではなく、当時日本で用意できうる最高の頭脳と材料(ドイツ製もあったが)で、時間や手間を惜しまず丁寧に工事は行われた。
ミカンの断面の形にロープを張り、一つおきに手作業で生きている根を丁寧に掘り出し、整理し、旧地層内のレベルまで押し下げながら改良土壌で埋め戻す。
神社のご許可を得て、近年積み増しされた神社側の石積みも取り壊し、盛り土部分を除去した。約30㎝地表レベルを切り下げた。
大切な生きている根をすこしでも傷めることがないよう重機は一切使わない。新品の道具を使って、すべて手作業だ。
地表を切り下げるとむきだしになってしまう細い新根の生え際については、特に水はけや通気性のよい改良土を作り保護した。
底の赤土粘土層は、掘り進む中で水が抜けそうな場所(地層)を数か所見つけ掘削するとともに21本のDOパイプ(水はけを改善し地中に酸素を送り込む)という工法も使った。
一方、地上部の腐朽箇所は、剪定、殺菌のほか、複数の幹の大きな欠損部には、発泡ウレタンやパテ等も用いた。
神社のご許可を得て、近年積み増しされた神社側の石積みも取り壊し、盛り土部分を除去した。約30㎝地表レベルを切り下げた。
大切な生きている根をすこしでも傷めることがないよう重機は一切使わない。新品の道具を使って、すべて手作業だ。
地表を切り下げるとむきだしになってしまう細い新根の生え際については、特に水はけや通気性のよい改良土を作り保護した。
底の赤土粘土層は、掘り進む中で水が抜けそうな場所(地層)を数か所見つけ掘削するとともに21本のDOパイプ(水はけを改善し地中に酸素を送り込む)という工法も使った。
一方、地上部の腐朽箇所は、剪定、殺菌のほか、複数の幹の大きな欠損部には、発泡ウレタンやパテ等も用いた。
右は工事前。左は工事直後。かつての盛り土の高さやその上に施されたデコレーションのようすがよくわかる。
樹冠下の土面積も5倍以上に広げ、改良をおこなった。
残りの部分の土壌改良作業は翌年も行われた。春日神社の敷地内も昨年同様にご許可を得て、徹底して改良作業をおこなった。
(1998年12月 翌年の土壌改良作業 春日神社敷地内)
(1998年12月 昨年土壌改良した部分に、新しい根がびっしりと生えている!
左側黒いキャップのDOパイプ廻りには、さらにたくさんの新しい根を確認!)
(1998年12月 腐朽枝の剪定、殺菌作業中)
( 昨年、あまりの太さに剪定を躊躇していた幹上部に子実体=キノコが発生したため、思い切って剪定した。
樹皮の裏にはべったりと白い菌糸膜。
サンプルにと、調査に来ていた京都府林務課が持ち帰った。)
(1998年12月 工事翌年には、次々と胴吹き芽がでてきた!)
衰弱した枝先までびっしり付着したウメノキゴケなどの、地衣類、蘚苔類については、手作業でとりのぞいたあと、ボルドー剤散布により最大2年間、再付着を免れることもわかった。これについては、樹木医も貴重な具体例として喜んでくださり、報告は学会にも届けられた。
After
(1997年4月 工事後はじめての開花)
(同じく1997年4月)
工事後の最初の春。正直この満開が信じられなかった。
樹木医吉田隆夫先生も、「みなさんの丁寧な仕事の賜物」 とたいへん喜んでくださった。
(残念なことに、送った3年目の満開の写真は、奥様の手により、先生のご霊前に供えられることになった。)
(1998年4月16日 工事後2回目の春)
(1998年4月 黒田小学校全校児童のお花見給食)
(2000年5月1日 工事後4回目の春)
以上
【資料】 ....................................................
吉田隆夫先生(樹木医)からの手紙
平成9年 6月15日
冠省
先日は、黒田百年桜の近況と写真をお送りいただきありがとうございました。
とくに、近年にない咲き方とのことで、これはまったく○○○の技術の優秀さを示しています。また、採算を無視して仕事をされた賜物であると考えます。
土壌改良は、なかなか難しいもので粗っぽい仕事をすると、一時的には樹木の衰弱を促進することもあります。このようななかで直ぐに効果があがったのですから前節で述べたとおりです。
報告書を作成した私としても非常に喜んでいます。それは、報告書のあとがきのなかで述べているように、調査は僅かの時間であり 「そこで、それぞれの保護作業の実施のなかで、観察を補いながら、よりよい保護対策の実施が必要である」。これを○○○が実地に実行されたのであります。
本当に、いろいろとありがとうございました。
今後ともよろしくお願い致します。
敬具
【後日譚】 ....................................................
◇ 地上部、地下部のすべての工事は、74枚の写真や証拠書類を添えた工事報告書を持って黒田自治会にご報告すると共に、黒田基幹集落センターにて腐朽した根や幹の残骸とともに開示させていただいた。また、今後大切に守って行くのに力になると思い、天然記念物か何かで京北町の指定を受けたいと町会議員にも陳情したが、叶わなかった。
◇ 数年のち、突然一部地元の方が助言を依頼した佐野藤右衛門氏の指示でなぜか新根の保護土が地元の方により撤去され、新根の生え際が剥き出しにされてしまった。佐野氏はこの工事内容をまったく知らないはずなのだが…?
◇ また、工事の結果、数年にわたって次々と発生した太くて強い胴吹き芽(これが本工事の最終目的だった)も、地元住民によりすべて「取り木」され、見事に全部取り除かれてしまった。せめて太幹の腐朽が相当進行しているアスファルト側(写真では左側)方向だけでも残すように強くお願いしてきたが、これには驚いた。おまけにボランティアたちが手掘りで根を保護しながら徹底的に改良した土壌の上に、なぜか巨大な石まで据えられてしまった。
胴吹き芽の多くには気根がついており、立派な苗木が、それは簡単にたくさん出来たことだろう。以降、胴吹き芽は出ていない。
( 苗木が必要なら、相談をいただければ、樹勢回復後に枝を使った接木苗という方法でいくらでも生産出来るのだが、強い胴吹き芽を出させ100年単位といった長いスパンでの木の寿命の回復を図るのが目的だった本工事後に、理由はどうであれ、出てきた胴吹き芽を全て取ってしまったということ。)
似たようなことは、今の人間社会ではよくあるのかもしれないが、どのようにとらえる「べき」かと、樹木医の論文試験に出されそうな、その後の経過ではある。
□ 追記 □
話は外れるが「樹木医」とはどういうものか知りたくて、90年代中頃に大阪で一度受験してみたのだが、学科試験はともかく、後半の論文試験は自分にはややこしく難しかった。
道路工事計画とそこにある老木をめぐって、地域住民(の一部)と行政の方針が食い違うという対立状況で、樹木医としてはどうするべきかといった問題だったと思う。
アボリジニが老木に自分たちの体を縛り付けて白人による伐採や開発から森を守ったことを思い出しつつ無理矢理回答したら、やはり落ちてしまった。
行政といえば、春日神社は当時から、隣接する黒田百年桜とは無縁と言っていたが、京都市は黒田百年桜に対し『百年桜(春日神社)』と表記した観光標識を新たに設置、広報や小冊子では『春日神社の桜』と呼んでいる。黒田百年桜は京北町有地(現在は京都市有地)に立っているんですが…。
2017年には工事後20周年を迎える。京北町黒田地区も京都市に「編入」された。
この間に、黒田百年桜のひとつとなりの黒田小学校は廃校。ま向かいのJA黒田支所は廃止となり、ヘスター台風(昭和24年)の教訓からこの黒田地域の災害孤立を見越して、京北町熊田の故 中川定雄先生 (農協中央、コメ開放交渉を巡って米欧各国を駆けずり回った) らによって作られていた危機管理用のガソリンスタンドや、食糧を備蓄していた蔵もなくなってしまうなど、目先の経済に振り回されて黒田地域住民のくらしは根底的に厳しくなった。
長い間、この地域の自然と共に人々を見てきた黒田百年桜は、今も人々の多様な思いを受け止めながら、上品な甘い香りを漂わせつつ、とりあえず見事な開花を続けている。
▲ 2012年 4月26日 工事後16回目の開花
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