双子の欅のはなし ― 2025年02月22日
京都に近い ある小さな山村に
それは大きな双幹の欅(けやき)の木が立っていました
長い旅をして来た小鳥たちは入れ替わり羽を休め
イカルのカップルは丸々とした青虫を口移し
日が暮れると山鳩夫婦が仲良く眠り
さらに夜がふけると 必ずフクロウがやって来て
ほっほほうと鳴いていました
広がる枝下では ホタルがいのちの明かりをともし
タヌキたちは食べものを探して訪れ
地中には 兎も眠っていました
月夜にはキツネが踊るように飛びはねていました
4段のツノを持つ大きな黒い牡鹿は 一族を引き連れ
ここでいななくのが日課でした
根元には 新たに芽吹いたモミジや山柿が育ち
数年に一度だけ現れて咲くウバユリは
大きな緑の花をたくさんつけて感謝と存在を主張しました
伸びやかで立派なふたつの幹を持つ欅
風雪に耐え いのちをはぐくむ
慈悲に満ちたその立ち姿はまさにマザーツリー
でした (リンク先は朝日新聞GLOBE+)
秋も深まる頃
ヒトによる大きな変化が突然起こります
大きなクレーンが欅の横に据えられ
たくさんの男達がトラックでやってきました
あたりの木々をすくませて
エンジンチェーンソーのかん高い排気音が響き渡り
それが4日間続いた後
ふたつの大きな株跡だけを残して
すべて解体され 売られていきました
一族を率いたあの大きな牡鹿が
切株の後ろに据えられていた檻のワナにかかって
殺されたのはその翌日のことでした
さらに翌朝早く 迷ったオオサンショウウオが
助けてと そばの小屋の戸口を訪ねて
そこに住む婦人を驚かせました
小鳥たちも キツネもタヌキも フクロウも
牡鹿のいななきも みんな消えて
ゆたかでやさしい景色は
ただ静かで 何もない
からっぽの風景へと変貌しました
毎日 欅に手を合わせていた婦人を除くと
異をとなえる住民は無く
「スッキリした」と喜ぶ声も聞こえました
第51回創画展 京都市美術館(京セラ美術館)にて
夕べの祈り:本宮祭6 ― 2024年07月20日
於 伏見稲荷大社
祈ってるのさ
ちっちゃな時から
かわいいおまえだ
何かあったら来な
この星の風景は
みんないのちの
つながりを映す
もう見納めかもな
おまえらのせいだ
すこやかなる時も
たおれし時も 誇り高く
つらいことが たくさんあっても
イツモシズカニ ミツメテイル
46億歳の地球に
30万年前 現われたホモ・サピエンスは
7万年前に突然 想像することを覚え
宗教などの虚構で大集団を作りだし
先住の人類をすべて絶滅させた
Merrily merrily merrily merrily
Life is but a dream
天国はない ただ空があるだけ
国境もない ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ
( Imagine 忌野清志郎訳 )
ふーん
海の鐘:不知火海 ― 2023年01月17日
高校の同級生仲間だった友人の
働く現場を見ておこうと思い立ち
早くに彼が根を下ろした
熊本県水俣市をはじめて訪ねました
不知火海 向こうは天草 左は鹿児島県出水市
季節には大きなナベヅルたちが
頭の上を渡っていくそうです
穏やかな水俣湾に浮かぶひょうたん島のような恋路島
この広大な公園の足元には
湾内に最大4m堆積した有機水銀入りのヘドロと
ドラム缶に詰め込まれた不知火海の魚たちが
無数に埋まっています
死の海の上に供えられた手彫りの野仏や
祈りの墓標たち 「魂石 」
さくらさくらわが不知火はひかり凪 (なぎ)
祈るべき天とおもえど天の病む
石牟礼道子さんの句です
水俣駅の正面に構える 広大なチッソの工場
入口にはガードマンが立っていて
じっとこちらを見ていました
36年間も有機水銀を流し続けた
百間(ひゃっけん)排水口
奇跡の星に誕生したすべてのいのちは
皆つながり助け合って生きています
新参の人類の思い上がりがひき起こす
傲慢な破壊行為
「水俣病」はここから始まりました
患者さんたちは奇病と差別され
水俣病は何度もフタをされていきます
誰に? なぜ?
現在の百間排水口と
その正面にある 新潟阿賀野川の石に彫られた地蔵
水俣病巡礼八十八ヶ所 一番札所 とあります
故 川本輝夫さん(水俣病患者連盟委員長)が建立しました
刻まれた文字の墨が薄くなっています
(撮影永野)
百間排水口を背に 地蔵にお経を唱える僧侶
埋立地に立つ水俣病慰霊の碑と二つの鐘
平成25年10月27日 明仁天皇と美智子皇后が水俣を訪れます
両陛下の強い希望で 胎児性水俣病の患者さんらとも会い
長時間 丁寧に言葉を確認しながら熱心な対話をされました
水俣病公式確認後も12年間 国も県も排水を止めなかった事に
患ひの元知れずして病みをりし
人らの苦しみいかばかりなりし 天皇
山の鐘
海の鐘
邪魔はしないからと
友人の現場を覗きに来たのですが
彼は この田舎職人に貴重な時間をさいて
精力的に水俣を案内してくれました
綺麗に整えられた鎮魂の景色からは
患者さんたちの苦しみや命がけの訴えも
激しい差別に癒えることのない傷も
支援者たちの何十年にもわたる格闘も
想像するのは難しいけれど
水俣病センター相思社に併設された
水俣病歴史考証館のリアルな展示物が
その厳しさを伝えていました
ここに最近 丸木位里さん丸木俊さんの「水俣の図」も
新たに加わったようです
この場所で素敵な人と出会いました
その人が初めて書いた 素晴らしい本です
決してむつかしい本ではありません
水俣病患者相談の日々が素直に綴られています
ぐいぐいと引かれるように読み進むうちに
潜在患者含め20万人にも広がる水俣病の実態や
胸につかえたまま語られなかった真実 そして
まだ何も終わっていない現実が伝わってきます
思い切って相談に来た患者さんたちだけでなく
長くよそ者として生きて来た私の旅にとっても
水俣の地で生まれ育った彼女の姿勢や生きざまが
ある種の安心とあらたな希望を与えてくれました
彼女には初めてお会いしましたが
友人の娘さんだったのは驚きでした
文中何度か登場する父親に
子育てや 父子の葛藤 奮闘を想像しつつ
彼女の半生の記としても
体温を感じるその文章とともに
感慨深く読ませていただきました
永野三智 (水俣病患者センター相思社)
発行:ころから 1800円+税
本書中 原田正純医師 (胎児性水俣病を発見) の言葉より
「環境汚染によって食物連鎖を通して起こった中毒なんて
いうのは人類史上初めてです」
「現在世界中で微量長期汚染の胎児に及ぼす影響を議論し
ています 日本で調べれば一番ちゃんと分かったわけでしょ
だけど今となってはもうわからない」
* *
微量長期汚染 食物連鎖…
エスカレートする酷暑極寒豪雨 そして核
自然のルールを破り 命よりお金をモノサシにして
共に生きる力を退化させたこの文明が滅ぶ時
これまでの歴史と決定的に異なるのは
地球の生態系を根こそぎ巻添えにしてしまうこと
あの安倍さんでも躊躇した岸田政権の超軍拡や原発回帰
かくして廃炉不可能のまま福島も見捨てられるのか
京都では地下水脈無視の北陸新幹線延伸にも呆れますが
私たちは 除草剤を使うの もうやめませんか?
《 リンク先はグリホサート(ラウンドアップ・ネコソギ・
サンフーロンほか)に関する貴重な記事です 》
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〈 追記 〉 2023・7・1
水俣病は過去ではなく現在進行形
百閒排水口で 市の説明なき解体に抗議し
座りこみ読経する僧侶
(熊日新聞7/1より)
初めて訪れた水俣の町
穏やかで美しい水俣湾をのぞむ集落は かつての温かい
営みを想像できる懐かしいたたずまいを一部残しており
水上勉の小説の情景を思い出す(不知火海沿岸・海の牙)
一方で 今も駅正面を占有するチッソの威容
町の妙に静かな風景に 何か意思を感じる緊張も匂い
怖いような不思議な気持ちでした
埋立地の公園の中に限って 歴史を伝えてはいます
故 川本輝夫さんは 後世の為に八十八ヶ所の巡礼場所が
水俣周辺に出来る 作らなければと信じておられたと
思いますが 今も彼が作った一ヶ所目の百間排水口のみ
市内の道案内の標識や看板も なぜか少なくわかりにくい
「水俣病を忘れたい市民もいる」と水俣市長は以前
ジョニー デップの映画MINAMATA上映会の後援依頼を
拒否したり(熊本県は快諾した) 最近では百間排水口を
撤去しようと試みたりしていますが 胎児性患者さんを
撤去しようと試みたりしていますが 胎児性患者さんを
はじめ 加齢とともにさらに近隣に広がりを見せる潜在
患者 症状悪化に耐えて生きている患者たちにとって
チッソ(JNC)労組が支持母体である市長の「忘れたい」
配慮は さらなる差別や分断を招くと危惧します
忘れてはいけない
豊饒の海を殺し 生き物のいのちと暮らしを破壊し
36年間にもわたって毒を流し続けられたのは何故か
人類史に刻まれる大失敗に対し
それぞれの場所や方法でちゃんと向き合わないと
共に生きる人々の活気も 町の未来もありません
その上で私たちは美しい水俣をもっと身近に
もっと誇らしく感じたい
同じことは 原爆や福島原発事故を経験した
この国にも言えると思います
「水俣病が起きて差別が起きたのではなく
差別のあるところに水俣病が起きた」(原田正純)
水俣を訪ねてみたいと思ったら
エコネットみなまたに相談してみることをおすすめします
思いや具体的な希望にも応じてくれると思います
「今の水俣を巡り私たちの暮らしを未来につなげるツアー」
〒867-0023 熊本県水俣市南福寺60
econetminamata@orion.ocn.ne.jp
TEL:0966-63-5408 FAX:0966-63-3522
陽だまりの笑顔:本宮祭5 ― 2022年08月02日
招き猫
三年間の空白を経て開かれた 伏見稲荷大社の本宮祭
ひとごみを避けて 前夜祭にあたる宵宮祭(7/23)に出かけました
溢れる中国人に背中を押されながら身動きできなかった頃が
嘘のような 静かで元のお稲荷さんに戻った感じ
参拝者は若い世代がほとんどで 女性同士か男女のカップルが
目立ち ゆっくり行燈画を見て回る人は まばらでした
ダイセンジガケダラナヨサ
三年間のブランクは やはり長くて…
ここにいたフクロウも何処かへ行ってしまいましたが
三年前 柳の木から大ジャンプして消えたロドゥス君は
自力で這い上がって来たし
赤い目のうさぎ
青い目のうさぎ
哲学者のような兎も 戻って来たし
赤トンボも
トウガンのカマキリも
みんな無事で よかった よかった
かすかに震える空気と いのち
いのちは こころ
石蕗(ツワブキ)の花は 陽だまりに浮かぶ笑顔
大きな葉っぱもいっしょに歌っているよ!
ノーヤクこわい! たすけて〜
非道なジェノサイドに逃げ惑うケムンパスでやんす
(農薬の発祥は原爆と同じ77年前 ナチスドイツのガス室から)
あー またやってるよ
懲りないね にんげんは
天の羽衣 浦島伝説 かつて海は
母であり 神であり 宝だった
おしゃべりはこれくらいにして
ここからは静かに見て行きます
… ふしぎ
ここまでお付き合いいただき ありがとうございました
また来年 ?
開催できるといいですね
わだすがにちにちあんでがす よろすぐ
むすめでがす
仲良しのカジカたんでがす ほほ
炭窯とセメント袋:佐分利川 ― 2020年11月23日
佐分利川 (60歳)
釣り客の車が のんびりと前を通る度に
警棒にヘルメット姿の 屈強そうなガードマン達が
仁王立ちで一斉に睨みつける
異様な空気が怖い 関西電力 大飯原子力発電所
その福井県おおい町を東西に流れ 原発の海へとそそぐ
おだやかな風情の佐分利川
古くは鮭漁も行われていたという この川の上流の谷に
若狭で評判の 心優しい絵描きが住んでおられました
16歳から炭焼き 山仕事に田仕事
さらに31年間
雨の日も雪の日も続けた大飯郵便局の請負配達
保育園児や村の子どもたちの絵画指導もしながら
渡辺淳さんは 病床の義父を30年支え続けました
晩歌 (38歳)
コマーシャリズムに流されず
「画壇」の脚光を浴びる事も良しとせず
よく働き 地域の人々に慕われた彼は
故郷の山河を描き続け
3年前の夏 86年の生涯を閉じました
うつむく (19歳 セメント袋 )
若き日 広げたセメント袋の裏に
クレヨンと水彩で描いた絵は ほとんどカビと
ネズミの巣の材料となり
ボロボロにかじられながらも
かろうじて3枚ほど残っていたといいます
誰に教わった訳でもない
誰に見せる訳でもない
「ともかく描きたかった。
描いて、自分のみじめさ、哀しさを打ち消す
激しい何かを探したかった。」
( 渡辺淳「山椒庵日記」)
くさむらの譜 (46歳)
ボールペン マジック クレヨン 水彩 コンテ 油絵具
手に入るどんな画材を使って何に描こうが その深さに
私は 魂の日本画だと感じました
どこかの退屈な展覧会など 吹っ飛んでしまうほどの
伊太爺と窯 (34歳)
生きる場所も方法も画材も全く異なりますが
秋野不矩さんの絵にもどこか通じるような
温みのある視線を感じます
母なる自然やいのちへの 素直な祈りとおそれ
「この谷の土を食い この谷の風に吹かれて生きたい」
絵とは 自然の中で生まれる思想です
山椒庵と呼ぶ 佐分利谷の薄暗い画室を
美山町から不矩さんが訪ねて来られたこともあったようです
85年には京都で 不矩さん 水上勉さん 灰谷健次郎さん 田嶋征彦さんらと「土を喰う日々 五人展」を開催されたという記録もありました
「現代作家たちが忘れた 土の根にふれた
確かな画業を確立している」(水上勉)
佐分利川の月 (27歳)
印刷では表情も輝きも伝わりませんが
少しでも関心のある方には 是非本物を見て欲しいと思います
アフガンの土に沁みいる中村哲医師の笑顔のように
うつろな心を揺さぶる まぶしいほどの月の光を
( リンク先のポスターはpdfファイルです )
於 若州一滴文庫
( じゃくしゅういってきぶんこ )
JR小浜線若狭本郷駅より福鉄バス大飯中学校前下車3分
2021年1月25日まで
火曜休館 一般300円
中学生以下と70歳以上は無料
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
佐分利川の谷に生まれた水上勉さんが
渡辺淳さんの協力も得て
地域の子どもたちのためにと 故郷に私費で作られた
とても静かで居心地のいい大きな小屋です
彼が子どもたちに揃えてくださった素晴らしい絵本や貴重な出版物が驚くほどたくさんあって 誰でも座って閲覧できます
美味しいかけそば330円などの休憩所もあります
一つだけ欲を言えば とても広い庭のおとなしい植栽を
もっと元気で自然に もっとワクワクするものに挑戦して欲しかったけど
よく管理されており これはこれでいいのかもしれません
水上勉さん亡き後も 工夫して維持されている方々の努力に感謝しています
常設展示も充実しており
時間が許せばゆっくりと過ごしたい 大切な場所です
イヌワシの山:北尾根 ― 2020年05月15日
この伊吹山から連なる北尾根を歩きました。
平穏に見える北尾根の美しい新緑ですが、場所によっては、とんでもない強風が間断なく吹き続け、何かに掴まって思い切り腰を低くしないと滑落しそうな、おっかなビックリの山行きでした。ナウシカの尾根か。
出会った人間といえば、スナフキンのようなご老人お一人様のみでした。岩だらけの急な下りを強風の中先行されてて、足元が大丈夫かなと心配していると、2本のピッケルを蟻の触角のように小刻みに使い、あれっ見えなくなった!と思ったら、私が探していた植物の傍にいつのまにか先着していて、静かに観察しておられました。すごい…
鹿から隠れるようにして、藪の中で生き残っていた一本の片栗(カタクリ)。
可愛い花だけに、名前の由来がどうもよくわからない、馬の足形(ウマノアシガタ)。
大犬の陰嚢(オオイヌノフグリ)に負けず劣らずの命名か。
手前の低い花は、細葉の甘菜(ホソバノアマナ)、後ろは伊吹旗竿(イブキハタザオ)。
山芍薬(ヤマシャクヤク)の群生。
この花に会いたくて来ました。開花2日目には開き切ってしまいますので、慎重に日取りを見定めたつもりでした。今日しかない!と ハバかりつつ越境して参りましたが、木陰が濃いほど蕾も固く、3、4日早かったかな。
咲いていた!
木が倒れ日当たりは良過ぎるが、その幹に寄り添うようにして強風に懸命に耐えている。
盗掘や林道工事、森林伐採や杉の植林放任などで、極端に少なくなってしまいました。古来より熱さましの生薬、アイヌの薬草としても伝承されてきたボタン科の固有種。( Paeonia japonica )
その神秘的、宇宙的で気品に満ちた大輪は、見る人を謙虚でやさしい気持ちにします。
京都の山で見る花よりも、幾分黄色がかっているようです。
かつて、この花を山で初めて見た時の感動を、子ども達や保育士たちにも伝えたくて、20年かかって庭で根塊化した大株を、京都のみつばち保育園北園舎の庭を作った折に、カマツカやソヨゴ、シャクナゲなどと共に植栽しました。
しかし自分の思い入ればかりが強すぎたのか、もひとつ反応が得られず、そのうちに市街地の空気に馴染めず数年かかって絶えてしまったという、失敗の苦い思い出があります。花は与えられるものではなく、自ら求めてこそ響く ということか。
二輪草(ニリンソウ)と呼びますが、二輪同時には咲きません。
走野老(ハシリドコロ)はこの時期、普通に山に群生しています。⚪︎⚪︎ドコロ(野老)というのは芋や根塊のこと。薬にも使われますが、全草有毒につき要注意。触れた指で目をこすると瞳孔が開き、世界がとてもマブしくなるそうです。
富貴草(フッキソウ)の花は、明日にでも咲きそう。
伊吹周辺にはイヌワシ(Golden Eagle)のカップルが1組だけ住んでいます。
以前は2組いたそうですから、最後のカップルになるのかもしれません。
伊吹の豊かな自然の象徴であり、ヌシのような存在。
ふと空を見上げると、その二羽のイヌワシが、強風の中を翼を広げ、風上に向かってゆっくりと飛行している。
そのうちに一羽が、猛然と鉛直線を引く様に急降下し、山影に消えて見えなくなった。
ぽかんと呆気にとられて、見とれてしまった。
我にかえって、写真をと思った時には、2メートルの翼を広げたイヌワシがゴマのような点になっていました。
写真上空の真ん中にその一羽が、遠いシルエットになって写ってはいますが… 。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
( 何人もの男達が、立派な機材で一年中「伊吹山のイヌワシ」を追って根気よく撮影を続けておられます。興味ある向きは検索してみてください。子熊を狙ったり、子鹿やウサギを掴んで飛ぶ姿も撮影されています。)
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