葉隠の庭:経方医学研究所2017年12月01日




 例えば春、無農薬でキャベツを植えっぱなしにすると、多くは食欲旺盛な虫たちにボロボロにされる。
それでもキャベツは枯れず、無残な姿のまま最後は新芽を伸ばし、花を咲かせ、種を結ぶ。
それは、キャベツがついには毒を持ち、虫から新芽を守ったからです。無農薬だけど毒キャベツに変身。
 植物には強い意志があり、私たちはまだその多くを知らない。



     .............................................................




 半年遅れで受け取った早すぎる訃報に、そんなことをぼんやり考えていた。




山の湧水を集めた池。



庭は15年前に作った。
荒れた林道でジムニーごと谷に転げてしまった彼が、助けを求めてきたりした頃。



鉄骨で鹿と雪避けの囲いをして作ったわさび畑。もうわさびはなかった。代わりに、お好きだった九輪草がいくつか植えられていた。




わさび畑の跡




山に滲み出る水をその地層から直接、地中タンクに集めて、沈殿させた上水をお茶用に配管した。
水量は減っていたが、まだ機能していた。




湧水沈殿式の仕掛はまだ機能していた。




水場を左に過ぎて、この奥が経方医学研究所。
わさび畑を夏の直射日光から守るために土を盛り植栽した。




池を過ぎて道は研究所へと続く

   


降り積もった落ち葉以外、何ひとつ変わっていない研究所。使っていた軽トラも、道具や合羽も、ポンとそこに置かれたまま。
いちばん奥の煙突小屋はレール式の本格ガス窯。作陶はプロだった。釉の研究もよくし、京の料理屋の器まで頼まれて作った。
スピーカーのエンクロ―ジャーも陶器で試作し、聴かせてくれた。吸音材も工夫しFostexのかわいいフルレンジスピーカーが、つやがあって柔らかい、気持ちのいい音を奏でていた。





経方医学研究所



訪ねると、珈琲を立てたり、育てた野菜やスペアリブを御馳走してくれたり。
いろんな話をしてくれた。特に油脂や野菜、コメなどの食べ物の話は目からウロコで、私の食生活も大きく変わった。


部屋ではフルートも聞かせてくれた。ご近所のツトムヤマシタ氏とセッションしたらしい。とても楽しそうに吹いていた。





テラス側は椿や馬酔木を植栽。いつも珈琲をたててくれた。




暖かい春の休日に訪ねた時、若く美しい奥様や、まだ独身だった息子さんらがいらしていた。奥様がいい笑顔で、遠慮なくお話してくださったのが嬉しかった。


苦労して植えた大きな山桜は、すっかり大木になった。
苗から育て上げた奥の朴の木とともに、シンボルへと成長した。





植えた山桜は軽く10mを超えた。奥には朴の木も。




マンサクや山法師、藪椿に夏椿、馬酔木にシャクナゲ、ミツバツツジ。鳥兜などの山野草の脇には、遊びに来るタヌキの為に食事も用意されていた。京都の山の自然をよく知る、彼らしい植栽の選択に感心しつつ植えた。


軒も深く、ろくろのある立派な作業小屋は、彼をよく知る大工の金田さんが心意気で建ててくれた。広い和室もあって、そこで文字どおりの『格闘』ごっこをして遊んだ。「思い切り向かって来い」と言われて、何度挑んでも鋭い動きと集中力でコテンパンにやられた。トレーニングも欠かさない、京大闘争以来の格闘家でもあった。





ろくろの作業小屋と和室。奥にはレール式のガス窯



植栽樹木が細菌性斑点病にかかった時、殺菌剤の長期定期散布などの一般的対応策を説明をすると、彼は20種類の漢方を調合して煎じ、月1回の薄めた灌水だけで見事に克服させた。
少し頒けてもらい、農薬では克服が難しいバラの黒点病に使ったら、はっきりと効果をあげて驚いた。
 『漢方は、植物のためにある植物の力を、人間が勝手に利用しているだけ。爪の中の水虫に、爪の上から殺菌剤をかけても無駄でしょ。



少しの時間を見つけては、高雄からクルマを飛ばして通い、この広い畑で個性的な野菜を作っていた。荷物も運ぶためGTRはレガシーに、ボコボコのジムニーは新車のチューンド ジムニーに変わった。
研究所は中央の杉木立の中にある。敢えて、どこからも見えない場所に建てた。







畑と物置小屋。研究所は中央杉木立の中。少しの時間を見つけては、この広い畑にいた。



向上心を燃やし続け、いつも真剣に生きていた素敵な男は、武士というより、ハガネのしなやかさを持つダンサーのような印象を残して行ってしまった。 
不器用でぼんくらな私には、テキパキと律して切り替える彼の生活が、時に、生き急いでいるようにも見えた。なのに、いつも楽しそうだった。

      



     ...................................................... 






江部洋一郎先生。元高雄病院院長。漢方を志す者はもちろん、老若男女に慕われていました。
一連のライフワーク的著書『経方医学』は大きな灯台となり、中国でも出版され、現場や研究者達の高い評価を得ているそうです。

院長を退かれた頃は、全国各地の講演依頼にも元気に応えておられました。帰ってくると、講演料が入ったからと連絡を受け、道や庭の補修に伺ったりしたこともありました。お仕事以外のみやげ話付きで。


5月16日、突然のご逝去だったそうですが、ご家族で静かに送られたと、京大医学部の同窓で先生と親しかった得意先を通じて聞かされたのはつい先日のことでした。1948年広島生まれ、被爆二世とお聞きしております。


 ありがとうございました。
 ご冥福をお祈り申し上げます。









台風18号と大クワノキ:西山2013年10月09日


 9月17日、京都では珍しく、避難を呼びかける電話が鳴り続けた緊張の一夜が明けると、沓掛のみつばち保育園西山園舎から、園長の悲壮な声で一報。
 あちこちの土砂崩れや河川の決壊箇所の情報も入らぬ混乱の中、迂回を繰り返して法人の理事長を乗せ、現場に辿り着くと、みつばち保育園の大看板クワの木が二股の根元からパックリと割れて倒れている。(「この素敵な足のために」参照)

 たいせつな運動会を5日後に控え、いつものことだけど、対応は緊急を要した。




台風18号で倒れた、西山園舎の大クワ




二股の幹の大きい方は根元もパックリ




≪ これまでの30年、これからの30年 ≫

 捨身のリーダーが中心となって築いてきた30年。法人化のあと、これから若い世代にどうバトンを渡してゆくのか、次の30年をどう描いてゆくのか… それは、つまるところ若い人たちが自分たちで考え、作りだしてゆくしかない。
 この西山園舎は近年、努力を重ね敷地を広げたが、途中で放置されそのまま荒れた部分もあったり、手軽で便利なキャンプ場のような使われ方をされたりで、子どもたちの大切な場所にしてはまるで遺産を食いつぶしているような妙な状況になってきている。世代の節目の時期にさしかかって、保育園では議論を起こそうとしていた。

 保育園の人気の樹木は、連日の踏圧で固められ根呼吸もしんどく、非常に過酷な状況を覚悟しなければならない。山や庭とも全く条件が違うし、寿命にも影響が大きい。
 苗木を植え30年。この木は子どもたちに愛され、12mの高さにまで育った。登りやすいように剪定や施肥を繰り返してはいるのだが、一方で太い枯れ枝も目立ち始め、ちょっとくたびれた体に鞭打ちながらも、子どもたちを両手に抱えたり、木陰で守ったりと、一緒に遊びながら嬉しそうに立っていた。

 
 起こして、残った根の量にふさわしく、ぐっと小ぶりに整姿剪定し、たくさんの頑丈な支柱で支え、土壌改良して、養生のため柵で囲い立ち入り禁止にする… 樹木治療としては基本だが、いつも子どもたちに囲まれて共に育ってきたこの木がそういった対応を望んでいるだろうか? あるいは、そんな形になってまで遺産にしがみつくのは、常に前を向いてきた「みつばち」らしくないと……

 これまでの30年をシンボライズする木が倒れたのは、次の30年を具体的に考えてもらういい機会ではないか。残念だが思いを切って、伐るべし。
根も全て掘り取り、更地にして、次の30年に向かって新たな風景を若い人たちに、今度こそ本気で描いてもらおう。
ここで本園の運動会があるので3日以内に作業を。

園長、理事長、私の話し合いは、こういう結論になった。




小さい方(高さ10m)は起こして固定、大きい方(12m)はそのままで整姿とした。




しかし結局、私には伐ることはできなかった。
園長、理事長の覚悟ともいえる決断を裏切ってしまったが
倒れても、傷ついても、かっこ悪くても、人間の子どもたちと生きてゆく…
それが大クワの意志ではないかと思えてきた。

 パックリと裂けて倒れた太幹はかえって動かさない方が、かろうじてつながっている根を傷めない。芝生山に向かって倒れているので、それなりに安定しているから、最低限の剪定と傷ついた根元を改良土で保護すれば、このままなんとか生きてゆけるかもしれない。
 あこがれのクワの木が横になってくれて、これまで登れなかった年中以下の子どもたちでも登れるかたちに。複雑な枝ぶりは、自然のジャングルジムであり、立体あみだくじである。心配そうな子どもたちに、だいじょうぶ登っていいよと声をかけると、たちまち鈴なりになった。

 もう一方の、小ぶりな方は引き起こし、6mの檜丸太で三方からしっかりとスマートに支えた。小ぶりといっても10mほどある。いくつもひび割れた地面は改良したが、あえて立入防止柵は設けず、すぐに年長に登ってもらった。以前よりも数段難しくなったが、慎重に考えながら時間をかけててっぺんまで登ってくれた。すばらしい!
子どもたちは、いろんな遊びを工夫し始めた。倒れた幹でなんとカマキリのレースもやったのだそうだ。
大クワは最後まで子どもたちとふれあう道を選んだ。

 園長、理事長にもご納得をいただいた。園長はレイアウトが大幅に変わってしまった運動会の場で、保護者たちにも趣旨を丁寧に説明してくださった。

 それにしても、こんな保育園って、きっとどこにもないだろうな…
 折りしも、中秋の名月。台風18号でずいぶんひどいことになっていた京のまちだが、西山からの眺めは美しかった。



西山からの眺め。仕事を終えると中秋の名月、中央左に京都タワーも見える。





    



 …… そしてこれが その8年後の姿。

勝手な「園の都合」で一杯だった私たちに
このままで共に生きようと
心に直接働きかけるほどの
強烈な意思を示した大クワは
私たちの想像を遥かに超えて
子どもたちに素晴らしい応えを見せてくれています。

スローガンではない
ほんとうの「生きる力」を。


この木なんの木?










黒田百年桜の治療 :京北(百年桜Ⅰ)1997年04月30日





1996年4月 工事前年の開花状況
     
      Before

(1996年4月の開花状況。花は少なく、太い幹や枝には3種類のキノコも生え腐朽が目立つ)




 黒田百年桜は、京北町黒田地区の旧黒田村役場前に植えられた、ヤマザクラの突然変異種。
樹齢は200年とも300年とも言われるが正確な記録はない。
接する春日神社とは直接、関係はない。
花期は遅く、例年4月下旬。色濃く、香りも強い。房咲きで八重一重が混じる。
ここ3,4年の衰弱は目に見えて激しく、前年はまばらにしか咲かなかった。



 平成7年、黒田自治会(林鋭二会長)は、樹勢回復を図るべく、京都森林組合連合会の嘱託樹木医、吉田隆夫先生に診断を依頼する。
 たまたま、現場の植木屋にこそ樹木医の知識は必要と考えて『樹木医の手引き』(緑化センター発行)等で勉強したり、樹木医資格試験にもぐりこんで受けてみたりしていた私は、縁あって先生のこの調査に立ち会い、先生の手書きでびっしりと書き込まれた分厚い報告書をもとに、ご指導を受けながら工事設計をはじめることになった。



 工事の最終目的は、強い胴吹き芽を出させること。それらが腐朽した幹に代わって今後数百年の黒田百年桜を形成していくこと。

 平成8年11月、設計書は樹木医、自治会、さらに緑の羽根補助金のご許可をいただき、工事が始まった。

(写真は、手書きカラーコピー版日日庵報からの抜粋)





衰弱の原因は舗装と土盛り



 サンドイッチの地層。百聞は一見に如かず。
真ん中の黒い層は、このあたりの土でクロボク(黒田という地名のいわれ)。ここが本来の地表部分。

 上の淡い色の部分はごく近年の盛り土で、キメの細かい左京区花背別所産の真砂土と思われる。単体で使うと堅く締まるのでグラウンド等にもよく使われている。

 一番下の地層は、赤土粘土層。 
この赤土粘土の底を写真で見た樹木医吉田先生は、思わず、読みが甘かったとつぶやいた。

 クロボクの層にある本来の太い根は盛り土により窒息、ことごとくまっ黒に腐朽が進行してしまっていた。真砂土の盛り土は堅く締まって空気が流通しないため、地表すれすれに、か細い白い根っこをかろうじて出していた。




盛土の下、太根は腐っていた。

↑ クロボクの旧地表上部付近の太い根。まっ黒に腐って、さわるとボロボロとめくれた。





↓ かつては地表に顔を出していただろう、風格ある巨大な根も窒息し、柔らかくもろもろと崩れた。
盛り土の下、幹近くのこんな太い根まで腐朽していた。







土壌改良工事はすべて手作業




 さらに、樹冠下のアスファルト舗装を剥ぎ取る。
出てきたものはぼろぼろにちぎれた大量の太い根の残骸だけだった。
衰弱の直接原因は、樹冠下の転圧とアスファルト舗装、それに真砂土の30~40㎝に及ぶ盛り土と造園的デコレーション(石板や植栽等)。底の赤土粘土層はその被害をさらに増幅させた。





高校生たちもボランティアに加わった。

( ↑ 呼びかけに応じて高校生もボランティアに参加してくれた)

 



 作業は、地元黒田地区在住の方々や、京都市から細野地区へ転入されてこられた美容師のご夫婦などの移住者、高校生を含む熱心なボランティアを得て、地元小学生の見学なども受けながら連日順調に進められた。




アスファルトを剥ぎ取り根を探す

 樹木医たちからの信頼も厚い京都伏見の老舗(有)林菊一商店 林一治先生のご協力や的確なアドバイスも受けながら、最新の情報と改良資材をふんだんに用いて土壌改良工事が進められた。
 



 材腐朽菌にやられた太い幹の処置に迷った時は、写真、サンプルをもって樹木医吉田隆夫先生を通じて、当時の桜研究の第一人者で『樹木医の手引き』の執筆者だった東京農大教授に判断を仰ぐなど、大げさではなく、当時日本で用意できうる最高の頭脳と材料(ドイツ製もあったが)で、時間や手間を惜しまず丁寧に工事は行われた。



現場監督をお願いしたおばちゃんの雄姿


 ミカンの断面の形にロープを張り、一つおきに手作業で生きている根を丁寧に掘り出し、整理し、旧地層内のレベルまで押し下げながら改良土壌で埋め戻す。
 神社のご許可を得て、近年積み増しされた神社側の石積みも取り壊し、盛り土部分を除去した。約30㎝地表レベルを切り下げた。


 大切な生きている根をすこしでも傷めることがないよう重機は一切使わない。新品の道具を使って、すべて手作業だ。


 地表を切り下げるとむきだしになってしまう細い新根の生え際については、特に水はけや通気性のよい改良土を作り保護した。 


 底の赤土粘土層は、掘り進む中で水が抜けそうな場所(地層)を数か所見つけ掘削するとともに21本のDOパイプ(水はけを改善し地中に酸素を送り込む)という工法も使った。


 一方、地上部の腐朽箇所は、剪定、殺菌のほか、複数の幹の大きな欠損部には、発泡ウレタンやパテ等も用いた。




左、工事後  右、工事前
     
         

 右は工事前。左は工事直後。かつての盛り土の高さやその上に施されたデコレーションのようすがよくわかる。
樹冠下の土面積も5倍以上に広げ、改良をおこなった。




 残りの部分の土壌改良作業は翌年も行われた。春日神社の敷地内も昨年同様にご許可を得て、徹底して改良作業をおこなった。



1998年12月土壌改良工
  

   (1998年12月 翌年の土壌改良作業 春日神社敷地内)





一年後の発根状況

(1998年12月 昨年土壌改良した部分に、新しい根がびっしりと生えている!
左側黒いキャップのDOパイプ廻りには、さらにたくさんの新しい根を確認!)







1998年12月 腐朽枝の剪定作業

(1998年12月 腐朽枝の剪定、殺菌作業中)







キノコが発生したため切断。白いのは菌糸膜

( 昨年、あまりの太さに剪定を躊躇していた幹上部に子実体=キノコが発生したため、思い切って剪定した。
樹皮の裏にはべったりと白い菌糸膜。
サンプルにと、調査に来ていた京都府林務課が持ち帰った。)






1998年12月 1年後の胴吹き芽


(1998年12月 工事翌年には、次々と胴吹き芽がでてきた!)





 衰弱した枝先までびっしり付着したウメノキゴケなどの、地衣類、蘚苔類については、手作業でとりのぞいたあと、ボルドー剤散布により最大2年間、再付着を免れることもわかった。これについては、樹木医も貴重な具体例として喜んでくださり、報告は学会にも届けられた。



After



治療後の最初の花つき
   
   

    (1997年4月 工事後はじめての開花)






1997年4月 工事後初めての開花
   

    (同じく1997年4月)




 工事後の最初の春。正直この満開が信じられなかった。
樹木医吉田隆夫先生も、「みなさんの丁寧な仕事の賜物」 とたいへん喜んでくださった。

(残念なことに、送った3年目の満開の写真は、奥様の手により、先生のご霊前に供えられることになった。)




1998年4月、工事後2度目の開花

(1998年4月16日 工事後2回目の春)







1998年4月お花見給食

(1998年4月 黒田小学校全校児童のお花見給食)







2000年5月1日 工事後3年目の開花
      

     (2000年5月1日 工事後4回目の春)

                                       以上







     【資料】     ....................................................



 吉田隆夫先生(樹木医)からの手紙

              平成9年 6月15日 

 冠省
 先日は、黒田百年桜の近況と写真をお送りいただきありがとうございました。
 とくに、近年にない咲き方とのことで、これはまったく○○○の技術の優秀さを示しています。また、採算を無視して仕事をされた賜物であると考えます。
 土壌改良は、なかなか難しいもので粗っぽい仕事をすると、一時的には樹木の衰弱を促進することもあります。このようななかで直ぐに効果があがったのですから前節で述べたとおりです。
 報告書を作成した私としても非常に喜んでいます。それは、報告書のあとがきのなかで述べているように、調査は僅かの時間であり 「そこで、それぞれの保護作業の実施のなかで、観察を補いながら、よりよい保護対策の実施が必要である」。これを○○○が実地に実行されたのであります。
 本当に、いろいろとありがとうございました。
 今後ともよろしくお願い致します。
                              敬具
 






後日】   ....................................................




◇ 地上部、地下部のすべての工事は、74枚の写真や証拠書類を添えた工事報告書を持って黒田自治会にご報告すると共に、黒田基幹集落センターにて腐朽した根や幹の残骸とともに開示させていただいた。また、今後大切に守って行くのに力になると思い、天然記念物か何かで京北町の指定を受けたいと町会議員にも陳情したが、叶わなかった。



◇ 数年のち、突然一部地元の方が助言を依頼した佐野藤右衛門氏の指示でなぜか新根の保護土が地元の方により撤去され、新根の生え際が剥き出しにされてしまった。佐野氏はこの工事内容をまったく知らないはずなのだが…?



◇ また、工事の結果、数年にわたって次々と発生した太くて強い胴吹き芽(これが本工事の最終目的だった)も、地元住民によりすべて「取り木」され、見事に全部取り除かれてしまった。せめて太幹の腐朽が相当進行しているアスファルト側(写真では左側)方向だけでも残すように強くお願いしてきたが、これには驚いた。おまけにボランティアたちが手掘りで根を保護しながら徹底的に改良した土壌の上に、なぜか巨大な石まで据えられてしまった。



 胴吹き芽の多くには気根がついており、立派な苗木が、それは簡単にたくさん出来たことだろう。以降、胴吹き芽は出ていない。



 ( 苗木が必要なら、相談をいただければ、樹勢回復後に枝を使った接木苗という方法でいくらでも生産出来るのだが、強い胴吹き芽を出させ100年単位といった長いスパンでの木の寿命の回復を図るのが目的だった本工事後に、理由はどうであれ、出てきた胴吹き芽を全て取ってしまったということ。)
 


似たようなことは、今の人間社会ではよくあるのかもしれないが、どのようにとらえる「べき」かと、樹木医の論文試験に出されそうな、その後の経過ではある。 







         □  追記   □ 


 話は外れるが「樹木医」とはどういうものか知りたくて、90年代中頃に大阪で一度受験してみたのだが、学科試験はともかく、後半の論文試験は自分にはややこしく難しかった。
 道路工事計画とそこにある老木をめぐって、地域住民(の一部)と行政の方針が食い違うという対立状況で、樹木医としてはどうするべきかといった問題だったと思う。
アボリジニが老木に自分たちの体を縛り付けて白人による伐採や開発から森を守ったことを思い出しつつ無理矢理回答したら、やはり落ちてしまった。



 行政といえば、春日神社は当時から、隣接する黒田百年桜とは無縁と言っていたが、京都市は黒田百年桜に対し『百年桜(春日神社)』と表記した観光標識を新たに設置、広報や小冊子では『春日神社の桜』と呼んでいる。黒田百年桜は京北町有地(現在は京都市有地)に立っているんですが…。



 2017年には工事後20周年を迎える。京北町黒田地区も京都市に「編入」された。
この間に、黒田百年桜のひとつとなりの黒田小学校は廃校。ま向かいのJA黒田支所は廃止となり、ヘスター台風(昭和24年)の教訓からこの黒田地域の災害孤立を見越して、京北町熊田の故 中川定雄先生 (農協中央、コメ開放交渉を巡って米欧各国を駆けずり回った) らによって作られていた危機管理用のガソリンスタンドや、食糧を備蓄していた蔵もなくなってしまうなど、目先の経済に振り回されて黒田地域住民のくらしは根底的に厳しくなった。




 長い間、この地域の自然と共に人々を見てきた黒田百年桜は、今も人々の多様な思いを受け止めながら、上品な甘い香りを漂わせつつ、とりあえず見事な開花を続けている。


 
 
 
2012年 4月26日
   
 ▲ 2012年 4月26日 工事後16回目の開花