崇泰院住職 大内立現さんを悼む ~ 親鸞の墓標の静けさ :東山2011年06月12日

 


 それは2003年、梅原猛先生が京都新聞日曜版一面にカラーで連載していた『京都遊行』に、崇泰院にある親鸞聖人の墓標について取材、執筆するとゆうことからはじまった。
カメラマンの井上隆雄氏が撮影に来られるというので、崇泰院のご住職 大内立現さんから、長く放置されていた境内や山の整備の打診を受けた。

 
 
崇泰院は浄土宗で、知恩院山門の北、青蓮院寄りにある古寺。大金をかけて常に綺麗に整備されている両観光寺院に比べ、質素でつつましやかな山寺の風情。月一の骨董屋の取引市以外は静かで、観光客もなく、たまに外国人が迷い込んで『チオンイン?』と尋ねる。
背後には、本堂を呑み込むような黒々とした孟宗竹の山。
 

 案外知られていないが、かつてはここが本願寺(浄土真宗)だった。それで元大谷と呼ばれている。
 武装した比叡山の僧たちの襲撃によって炎上し、ここで生まれた蓮如さんがここから逃れるまでは。




崇泰院 本堂の南は明治の建築。

 独特の雰囲気をもつこちらの建物は、新しく明治時代に建った。






崇泰院 本堂とキレンゲツツジ

 本堂とキレンゲツツジ。背後に迫る黒々とした竹林。
 そのなかに親鸞聖人の墓標がある。







 1272年に建てられた 親鸞聖人の最初のお墓。
暗い竹林の中、家康が築かせた知恩院の城壁の下に静かにたたずむ。
(以下の写真にあるものは、どれも一般公開していない)


裏の竹林にある親鸞聖人の最初の墓標
    740年が経過した、親鸞聖人最初の墓標







親鸞聖人の墓標の後ろに並ぶ









   茂るヤマミョウガ





 

 城壁の上の知恩院からは、大手造園会社の若い職人たちがエンジンブロアのけたたましい音で吹き飛ばす落ち葉や枝、観光客の空き缶などのゴミが毎日のように降ってくる。
 私に任された仕事は、長く放置されたこの広い「庭」すべての整備だった。大手造園会社に依頼するような予算はない、何とかしてくれるだろうか、と。

 百数十本の孟宗竹を間伐処分し、ひと通りの庭木を整姿剪定、ぐらぐらの通用扉の腐った檜柱を継木修理、本堂の崩れた石段や穴の空いた銅板の雨トユを修理、知恩院から降り積もった大量のごみも大掃除。それからは、年に3、4回のメンテを続けた。特に墓標まわりは、少しでも空が見えるように孟宗竹を広く取り去り、明るさを維持した。たいへん喜んでくれた。





明るくなった親鸞聖人の墓標廻り

 




 大内さんは、お母上と二人暮らし。
お寺には頑丈そうな古い自転車が1台あるのみ。
とても誠実なお人柄で、年齢も近かったため話もしやすく童顔で親近感があった。
蓮如さんもこんな方ではなかったかと、ひとり想像したりした。

 
 こんなこともあった。
大内さんと10分間、門内で日程の打ち合わせしてる間に、私の車が門前でこっそり駐禁札を張られた。大内さんは柔らかい表情で若い婦人警官たちに事情を説明してくれたが、彼女らに笑顔はない。斜め向かいで上司が私服でじっと見張っており、聞き入れられないとわかると、『次は歩道に乗り上げてください。歩道は知恩院の私有地ですから』と言いながら罰金ですと私に一万円を差し出した。
 
 
 その後は、私の仕事のたびに知恩院に掛け合い、僧たちの立派な車が並ぶ駐車場に『日日庵と書いた白いユニック車』の進入許可を取ってくれた。
 

 

 いつもお母上の通院に付き添っておられたが、お母様の具合が悪いと呼ばれた救急車が到着した直後、救急隊員の前で、ご本人が「くも膜下出血」で倒れられた。






崇泰院 本堂の裏には 蓮如上人産湯の井戸が残る

 蓮如上人産湯の井戸。ちいさな植木鉢にはずっと賽銭がたまったまま。
栗と真竹でこの井戸蓋を作ったあと、背後の板塀を新調すべしとの依頼を受けたところだった。
私の崇泰院での濃密な時間は、8年目にここで止まった。
 






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